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NEC未来創造会議

4th Forum LEARNING/UNLEARNING
2050年に向けた“学び“と”挑戦”

傷・内発性・セーフティネット
──“自己理解”が学びの本質

データ化することで失われた“文脈”

松村:
テクノロジーのあり方については、「文脈」の扱いも気になっています。データはしばしば文脈から取り出されてほかにも適用できる情報として扱われてしまいますが、わたしたちは文脈のなかでしか生きていません。文脈のない生はありえないわけですよね。テクノロジーやデータはあちこちに適用可能なものとして捉えられるけれど、たとえば朝すっきり目覚めたい日もあればゆっくり寝たい日もあるように、文脈に依存することがたくさんある。

江村:
最近のテクノロジーはどんどんレコメンドを出してしまうのもよくないなと思います。データだけでつくられたレコメンドだけ見ると、新たなものに触れるチャンスが失われてしまうというか。データをうまくまとめつつも最終的には本人に判断を委ねるようなやり方を見つけたいですね。

松島:
ぼくはIoTデバイスで身体のデータをとっているんですが、体温も心拍数も日毎にかなり異なっていて、自分の身体の多様性に驚かされます。まさに伊藤さんが仰っている「多重身体」ですよね。ただ、データ化しすぎると今度はデータに縛られてしまう恐れもある。どこまで自分が主体性をもてるのか日々学んでいるような感覚がありますね。

伊藤:
データ化や可視化は人間が理解しやすくするために行われていると思うのですが、人間ってそんなに単純化しないとわからないのかなという疑問もあります。そこまで人間の情報処理能力は低くないのではと。理解しやすくすることで背後にある文脈が失われてしまうことはよくあるので、文脈も含めてきちんと取り出せるようなデータ化を発明できないのかなと考えます。たとえば声は声色やニュアンスにかなりの情報が含まれているはずで、声を使って一見単純だけど豊かなものの可能性を引き出せないだろうかと想像します。よくスポーツ選手が「フッといってシュッとやる」とか擬音を使って複雑なスキルを表現しますが、本来はそこにすごい情報量が含まれているはずですから。

直接体験と間接体験のズレ

松村:
リアルとバーチャルの境目についても同じようなことがいえそうです。たとえば「直接体験」と「間接体験」は何が違うのか。インターネットを使えばエチオピアの町並みを見られるかもしれないけれど、実際に行くときの体験とは大きく異なっている。VRなどによって体験できる範囲は非常に広がっていくとは思うのですが、果たして本当に代替できるのか。

江村:
たしかにそうですね。

松村:
人類学はフィールドワークを重視していて直接その場に行くことが重要なのですが、わたしたちは「その場にいる」ということの意味をじつはまだ理解できていないのかもしれません。身体がどう動いているのかわからずにコミュニケーションをとっていることも多いですからね。

伊藤:
わたしたちが見ている世界がそもそもバーチャルだとも考えられますよね。脳科学の研究が示しているように、わたしたちは客観的にいろいろなものを見ているのではなく、かなり記号的に理解しようとしている。その過程でかなり身体はバーチャルに動いているように感じます。

松島:
今年のメディアアートの世界的祭典でも、個人の心象風景をそのまま追体験させるようなVR作品がグランプリを受賞していました。膨大な情報をもっている体験を記号化するのではなく、そのまま感じられるようなテクノロジーが生まれてきている。NEC未来創造会議でも紡がれた物語を知ることが掲げられていますが、自分や他者、社会も含めて文脈を捉えながら伝えていくことが重要ですね。

江村:
VRですべてを体験できると考えるのは「楽な道」なわけですよね。もちろんテクノロジーはいろいろな面でサポートしてくれるけれど、自分自身が何か動かないことにはわからないことがたくさんある。

松村:
もちろん、VRがダメなわけではないですけどね。当事者の手記を読んだりインタビューを読んだり、わたしたちはさまざまなかたちで物事を追体験して共感できるようになっていますが、それを超えるレベルで非常に身体的な感覚として物事を追体験できるような場がVRから生まれると、教育的にも非常に有意義かもしれません。

自己理解し、安心して葛藤するためのセーフティネット

松島:
今日の議論では、非合理的な中間領域をいかにテクノロジーによって確保していけるのかが問われていると感じました。コントロールできない身体性への畏怖やデータ化されたときの余剰を確保していくには、どうすればいいのでしょうか。

伊藤:
いろいろあるとは思いますが、内発性は重要だと考えています。多くの場合は人に触発されて何か自分のなかから湧き出てくる内発性こそが、人間が生きていくエネルギー源だと思っています。

江村:
内発し、自己理解を行ない続けることが”学び”の本質なのではないでしょうか。人がもつ本来の能力を十分に発揮することが大切なのだと思います。

伊藤:
一方で、数字による評価や外部から与えられる指標は内発性を殺してしまいがちです。ときに内発性は人から刺激されることで生じるので、傷がつくこともあるでしょう。だから安心して傷つくことができる環境も必要ですよね。

松島:
傷つく体験を経て内発性を発揮できるような場を、ぼくらは確保しなければいけないわけですね。

松村:
「傷」というように、たしかにリスクはありますよね。ただ教育ってそのリスクから逃げ出したら成り立たないでしょう。葛藤みたいなものがなければ人は学びませんから。いまの学生は失敗をすごく恐れているので、わたしは生徒をその呪縛からUNLEARNINGしなければいけないなと思っています。それはこれまで引きずってきたものをUNLEARNINGして、崩して開かれていく場ですよね。傷みたいなものに向き合う経験でもあると思います。安全だけど予定調和ではない場をいかにつくれるのか、一回性や偶然性をいかに教育の場に残していけるかは課題だと感じています。

江村:
テクノロジーで効率を上げることは悪いことではないのですが、やはりセーフティネットはきちんと設計されていなければいけませんね。失敗しても大丈夫だと思える環境をつくらなければいけない。これまでの会議ではしばしばマズローの五段階欲求について言及されてきましたが、そのベースの部分も改めて整理しなおす必要がありそうです。

かくして今年度最後の有識者会議は議論を終えた。「RELATIONSHIP」に「EXPERIENCE」「VALUE&TRUST」「LEARNING/UNLEARNING」とそのテーマは抽象的かつ多岐にわたっていたが、さまざまなかたちでセーフティネットの重要性が論じられたのは印象的だ。単に弱者をすくい上げるためにそれはあるのではなく、どんな人もセーフティネットなしには自分を開いて学んでいくことはできない。ときには傷を負いながら、自分を不確実性にさらすことで人はUNLEARNINGし、再びLEARNINGしなおせるのだから。

NEC未来創造会議はこれまでNECが培ってきたさまざまなテクノロジーの可能性を十分に信じながら、同時に何度も疑いつづけ、新たなあり方を問いつづけてきた。「相互作用」や「共体験」「価値包摂」「自己理解」など、これからのテクノロジーを考えるうえで重要な概念の数々が今年の有識者会議からは提唱されていたといえるだろう。全4回の会議に加えて11月8日に行われた「C&Cユーザーフォーラム & iEXPO2019」特別講演をもって今年度の有識者会議は大団円を迎える。ただ、これでプロジェクトが完結するわけではない。「意志共鳴型社会」の実現に向かって、NEC未来創造会議の挑戦は続いていく。