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NEC未来創造会議

4th Forum LEARNING/UNLEARNING
2050年に向けた“学び“と”挑戦”

「最強の共鳴体験」が教えてくれたこと
──受動と能動の融解から生まれたコミュニケーション

不確実さを受け入れる「共鳴」

松島:
関係性が溶けてもう一度再構築されていくことは、ある種の受動性が発動するからこそ起きるわけですよね。これまでの会議では「共感」と「共鳴」は違うという話も出てきていて、インターネットのなかでは共感は起きるけれど共鳴が起きていないと語られていました。他方で、松村さんが最初にエチオピアに行かれてから日本に帰ってきたとき、日本が効率化されているがゆえに何も感情が起きないと以前書かれていたのがとても印象に残っていて。インターネットのような環境では、不確実さを受け入れることで関係性を再構築することが難しいのでしょうか。

松村:
そうですね。たとえば「いいね」って、すでにここにあるものを確認する作業みたいなものですよね。わたしを確かめる、わたしという輪郭を強固にするための共感といえます。一方で、たとえばエチオピアに行くとタクシーに乗るたびに値段交渉をする必要があるとかいろいろんなものがぜんぜんシステム化されていないのですごく大変だけれど、帰ってくると今度は日本に違和感を覚えてしまう。わたしの変化が強いられているわけです。それは最初の共感とは少し違う。

江村:
共感は同質的なもので、共鳴の対極にあるのだと思います。異質なものが出会ったときに初めて共鳴が起きるので、共感をいくら伸ばしても共鳴は起きないでしょう。最近日本のテクノロジーが遅れていると言われることが多いのですが、これも自分の専門領域のなかで共感しあえる人たちだけで集まっているからかもしれません。いわゆる融合領域が起きていない。

松島:
前回「VALUE & TRUST」に参加された法学者の大屋先生も、異なる価値体系の人々がきちんと信頼関係をもてることがこれからの社会設計のなかで非常に重要だと仰っていて、どんなアーキテクチャをつくっていけるかが問われていますよね。

江村:
日本はダイバーシティとインクルージョンが弱いと言われますが、意識をもう少し上げていかないと、いろいろな面で限界が来てしまっているように思いますね。

最強の「共鳴」は何を変えるのか

松島:
伊藤さんもさまざまな方をご覧になってきて、共鳴や同じ感覚を味わうことがどれだけ可能か研究を積み上げていらっしゃると思います。

伊藤:
じつは、わたしは最強の共鳴を経験したことがあります。目が見えない方と一緒にマラソンするクラブがあって。目の見えない方と見える方がロープでつながって手の振りをシンクロさせながら走るのですが、ロープを通じてものすごい量の情報がやりとりされていることに気付かされます。最初は友達の男性と一緒に行ったのですが、その人はロープを持った瞬間にパッと手を離してしまって。「これは、恋愛になってしまう」と。

松村:
なるほど、動きが伝わってくるわけですね。

伊藤:
ちょっとした情動の変化がロープを通して伝わってくる。たとえば一緒に走っていて坂が見えたとき、見えない人も前に坂があることがわかったりする。おそらく見えている人が坂を見て少し気合を入れるから、それが伝わっているのだと思います。人が意識化、言語化するまえの、身体的な情動としか言いようがないものが伝わってくる。しかも自分の思いが相手に伝わって、それがまた自分に返ってくる。がんばりどころで前のめりになると相手も応えてくれたり、まさに共鳴が起きていました。そうするとすごくいいタイムが出ることもあって。

松村:
おお、すごいですね。

伊藤:
逆の場合もありますけどね。1+1=2ではなくて、自分の輪郭が相手も含んでしまうというか、相手の身体のことも感じながら自分も走っていく。その感覚をみんな「共鳴」という言葉を使って表現されていたのが印象的でした。ロープがまるで神経線維のようになってすべてが伝わってくるのだと仰っていましたね。

「コミュニケーション」の再定義

伊藤:
その体験を経て、コミュニケーションというものを考えなおさないといけないのではないかと考えましたね。コミュニケーションとは情報の発信者のなかに伝えるべきメッセージがあってそれを伝えるものと思いがちで、ネット上のコミュニケーションもそういうふうに設計されています。そうするとメッセージだけがやりとりされて背後の文脈や身体的な状況が失われている。だから勝手に解釈されて拡散して分断が起こるのだと気づきました。そうではなくロープ的なコミュニケーションというか、ふたりで「走る」というひとつのできごとをつくっていくように、できごとのなかでメッセージがつくられていくことがコミュニケーションなのだと思います。

松村:
会話も本来はそういうものですよね。

伊藤:
いまのわたしも準備したことを話しているわけではなくて、いろいろ触発されながら話しているので、本当はコミュニケーションも一緒につくって自分からつい出てしまうものだと思います。ロープを使えば物理的に身体がつながるのでそのことを思い出せるのですが、つい伝達って違うふうに考えてしまいがちですよね。

松島:
なるほど、ひとつ物理的なものがあると変わってくるわけですね。ひとつめの問いは「身体性に根ざした個や社会の固有性とは何か?」でしたが、まずはテクノロジーによって捨てられているものが何か考えていくなかで、伊藤さんが最後に仰っていたようなお話にたどり着けたのではと思います。わたしがいてあなたがいるのではなくて、その間にあるもののなかで受動性と能動性が混ざりあっていく。そのなかにこそ、たとえば「人間中心」とか「これを学ぶべき」といった話のなかから捨てられているものがあるのではないかと感じました。続くふたつめの問い「デジタルテクノロジーは他者をいかにデータではなく固有性をもつ個人や社会として捉えることを可能にするか?」では、さらにテクノロジーの話を深めていけたらと思っています。