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NEC未来創造会議

3rd Forum VALUE & TRUST
ミラーワールドにおける“価値“と”信頼“とは?

「ミラールーム」の外に出ること
──価値軸の分散から、新たな信頼は生まれる

自分で自分を監視する世界

松島:
大屋さんの著書のなかで「ミラーワールド」ではなく「ミラールーム」について書かれていたのが印象的でした。それは全員が全員を監視する社会を指すのですが、必ずしもネガティブなものではなくて、全員が安全で安心な状態に行き着ける可能性も残されている。ミラールームは現代中国のデータ全体主義のようなものにあるということでしょうか? それとも、ぼくらはすでにかなりミラールームのなかにいるようなイメージをおもちでしょうか。

大屋:
中国は個人信用スコアの活用や監視メカニズムの社会的活用に相当踏み出していています。

松島:
デジタルレーニン主義と言われたりしますよね。

大屋:
ただ、それはよそごとではなくて、われわれの社会と同じ方向を向いているという指摘があるのも事実です。実際、われわれだって大量の防犯カメラや監視カメラに取り囲まれて生きているわけですから。

松島:
しかも必ずしも国が監視しているわけではないところも多いですよね。

大屋:
そうです。民間企業が行なっていて、われわれはそれを知っているわけですが、大体の人は受忍している。なぜなら、自分は悪いことをするつもりはないし、加害者になるより被害者になる可能性が高いから大丈夫だと受け入れているわけです。みんなが等しく監視のもとにあるというかたちで、監視するものと監視されるものの非対称性がない社会がつくられている。

松島:
国家が国民を監視するのとは違うモデルですね。

大屋:
はい。いまの監視社会はわれわれの幸福を守るために、われわれ自身がわれわれを見ている。支配しているのも自分だし、見られているのも自分。ミラールームのなかに閉じこもって、お互いの映像が鏡に映されているのを見ているような状態です。

誰が弱者の幸福を配慮するのか?

大屋:
これは支配・被支配の関係がないので正義にはかなっていますが、快適とは言いがたい。しかしこれを正義にかなったひとつの社会モデルとして徹底しているのが、いまの中国だと思います。ただ、中国には日本のような民主主義が根づいているわけではないので、これからどうなるかはわかりません。「ハイパー・パノプティコン」という言葉もありますが、中国がミラールームのモデルで済むのか、人民に監視されない権力者が人民を監視するという一方的な関係性が残ってしまうのか。中国がどの方向に社会を進めるかによって変わってくるのだと思います。

松島:
自由や幸福の意味自体が変容しているということなんでしょうか。たとえばイスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリは近代における自由な個人や主権をもった個人というのがそもそも幻想であって、そろそろ耐用年数が過ぎていると主張していますよね。

大屋:
そうですね。かつて経済とは「自由=幸福」で、みんなが自分の利益を考えて自由に取引をすればともに幸福だから勝手に幸せになると思われていた。その場合、国家の役目は強盗や詐欺を取り締まることにあったわけです。ただ、自由にしておけば幸福になるという自動的なシステムをもうわれわれは信用できない。そこで不幸になれる自由を選択するのか、幸福な不自由を選択するのかというモデルに分裂しているのではないでしょうか。

スプツニ子!:
やはりマジョリティは不自由な幸福を選択していくように思います。明らかにマイノリティで自由でないと生きていけないタイプの人々は、また新たなプレッシャーを受けることになるかもしれません。

大屋:
社会はその方向に着々と進んでいますね。日本もそうだと思います。多数者の幸福だけが実現して、弱者がどんどん辺境に追いやられていく。辺境でも幸せに生きていけるならいいけど、そうではないときにどうすればいいのか考えなければいけません。かつてのように強大な国家モデルが成立しづらく、分権化が進んでいく社会のなかで、全体的なコーディネートをどのように進めていくのか。いろいろなところで疎外されてしまう弱者の幸福を誰が正しく配慮するのか。多数者の幸福だけを効率的に実現するモデルだと、抜け落ちてしまうものは必ずあると思いますね。

価値の「軸」を増やす意味

スプツニ子!:
その点で宗教は効率重視でないところが興味深いですよね。いろいろな矛盾も含め、宗教を信じることで自分の存在意義を見いだしている人が世界に大勢いる。そして宗教でよく説かれる「弱者を助けること」は現代の効率や経済性を重視する社会で必ずしもメイクセンスしないけれども、人のまっとうな生き方としてメイクセンスするわけで、未来の超効率重視社会での宗教の役割を考える事があります。

大屋:
効率化の軸に多様性があると考えるほうがいいかもしれません。経済効率性の軸があり、魂の救済の軸があり、アカデミズム的な真理の軸もあれば、美の軸もあるでしょう。

スプツニ子!:
それは価値観の軸も分散化していくのでしょうか?

大屋:
価値観軸の分散によって、自由と幸福の可能性が窒息させられずに生き延びてきた部分はあると思います。中国的な個人信用スコアで気になる点は、それがすべてひとつの軸に集約されてしまうことです。道徳的にいい行動も経済効率のいい振る舞いも政府に忠実であることも、すべて同じスコアで計算されてしまう。そこに息が詰まっていく要素があるのかもしれません。

江村:
「RELATIONSHIP」をテーマとした第1回の会議でも日本が偏差値社会になっていると指摘されていたのですが、それと同じ構図だと感じます。自分の偏差値で行ける学校ならここだと決められてしまっていて、ひとつの評価軸しかないとその価値観で動かざるをえない。信用スコアのようにひとつの軸のうえに多様なものを置くと、とたんにそれぞれがもってる意味がわからなくなってしまう。それに宗教という点では、有識者メンバーである大阿闍梨の塩沼さんも面白いことを仰っていました。塩沼さんによるとお坊さんは修行を情報ゼロから始めるそうで、いまの人は山のような情報のなかから取捨選択をすることが前提になっているのはおかしいのではと。なので、社会がものすごく便利になった一方で、次にどのようなデザインをするかが問われはじめているのだと感じます。

松島:
今回は価値と信頼をテーマに置いていますが、価値の軸はひとつではないわけですよね。先程大屋さんがおっしゃったように、価値の軸をいくつももてることがもしかしたら安全や安心につながるのかもしれないし、そのなかのひとつが自分の信頼できる価値軸になるのかもしれない。宗教のように、数値化や効率化と異なる価値を軸のひとつに入れていけるような社会をどうつくっていけるかが重要になっていくでしょうね。