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NEC未来創造会議

1st Forum RELATIONSHIP
“わたし“と”わたしたち“の「分断」をいかに乗り越えるか?

他者を想像することは、「個」から脱出すること
──共感から共鳴へステップアップするためのレッスン

「共感」と「共鳴」は違う?

今回の会議で提示されたふたつめの問いは、「コミュニティを実装するうえで意志の共鳴はいかに引き起こせるのか」。NECは未来創造会議を通じて打ちたてたビジョン「意志共鳴型社会」には、個と社会をつなぐコミュニティを実現するためのヒントが隠されている。多様性にあふれた人々を包摂する豊かなコミュニティをつくることと、人々が他者と意志を共鳴させてそれぞれのビジョンを実現させていく社会を実現することは、互いに絡み合っており分かちがたいものなのだ。

しかし、そもそも「意志」が「共鳴」するとはどういうことなのだろうか。4人の議論はまず、「共鳴」と「共感」の違いを考えることから始まった。SNSをはじめとするインターネットサービスやプラットフォームの力を考えるうえで共感なるワードが上がることは少なくない。松島は、その差異がウェルビーイングともつながっているのではないかと語りはじめる。

松島:
今回の会議ふたつめの問いに移りたいと思います。コミュニティを実装していくうえで他者との意志の共鳴は重要な鍵となりますが、これはまさにNEC未来創造会議が大きなテーマのひとつとして掲げてきたものです。先ほども議題にあがったウェルビーイングの設計論を拝読していると、ウェルビーイングに達するにはまず共感が必要で、そこから思いやり、利他的な行動と三段階に発展していくと書かれていました。インターネットを見ればわかるとおり共感それ自体はいい方向にも悪い方向にも働いてしまうもので、自律性が発動して思いやりになり行動へと発展していくことで初めてウェルビーイングが生まれるのだと。それは意志の共鳴と深くつながっているように感じました。

江村:
「意志共鳴型社会」とはこれまでのNEC未来創造会議のなかでたどり着いたコンセプトなのですが、「意志共鳴」といいつつもその本当の意味はまだわたしたち自身定義しきれていない気がしています。ただ、インターネット上の「いいね」みたいなものでは「共鳴」に至っていないことは確かだと思います。

松島:
そうですね。「いいね」では「共感」止まりなのかなと感じます。むしろ共感だけならインフレとも呼べる状態になっていて、そこから意志を発動して「共鳴」へとアップデートさせられていないのがいまの社会なのかなと。それをいかに実現するか考えるうえでは、やはりドミニクさんが専門とされるウェルビーイングがヒントになると思います。日本的なウェルビーイングと意志の共鳴とはどう接続されるとお考えですか?

自分/他人のなかに他人/自分がいる

ドミニク:
日本的なウェルビーイングについて考えるなかで達した結論としては、個からの脱却が必要だということです。ひとつめの問いで話していた自律性の話と矛盾するようなのですが、自律性が出すぎると個が強くなるきらいがある。それは意識の問題でもあるし評価経済システムの問題でもあって、基本的には「個」を大切にすることが重要とされている。AとBという人間がふたりいたら、それは異なった存在なのだという前提で始まっている。たしかにそれは正しいと思うのですが、それだけでは優劣の比較に必ず陥ってしまう。そうではなくて、Bという人の一部がAのなかにもあるし。Aの一部もBのなかにあると考えたい。この考え方は、リサーチを通じて仏教について学ぶなかで、縁起の思想を教わったときに思いついたものです。

松島:
縁起の思想というのはどんなものなのでしょうか?

ドミニク:
大阿闍梨の前で仏教の説明をするのは本当に「釈迦に説法」なので非常に恐縮ですが──。重々帝網という帝釈天の宮殿を構成する網があって、その結び目は宝珠になっているのだと。その宝珠一つひとつは鏡面のようになっていて自分以外のすべての球がそこに映し出されていて、ひとつの存在のなかにほかのすべての存在が入りこんでいるわけです。それはすべてが関係しているということ。これはまさにすべてが関係している縁起の思想だと思うのです。

松島:
ある種、共鳴しているともいえますよね。ドミニクさんはこうした仏教の知恵と自然科学や認知心理学をマージしようと努力されているのだと思います。ただ、ひとくちに「個から脱却」といっても、個の確立は長い時間をかけて人類が達成したものでもあって、個から離れることは容易ではない。そこで大阿闍梨にお聞きしたいのは、仏教的な世界の価値観をとりいれるときに現代社会でどのようなビジョンをもてばいいかということです。個から脱却してリレーションシップをもつ、縁起をもつという発想はどう感じられますか?

塩沼:
お釈迦さんが生まれたのはいまから2500年前ですが、昔もいまも本質的な問題は一緒だったのかもしれない。仏教とは、ざっくりいえば人間がよりよく生きていくためのアイデア。そのうえで仏教の心とはなにかといえば、仏教学者の中村元先生によると「いつくしみの心」。慈愛の精神、それは「他者を思うこと」に帰っていくこと。仏教は排他性と独善性がないから日本の文化と融合していたわけで、その宗教的なDNAをわれわれが受け継いでいることは意味があるのではないかと思います。

空気を読むのではなく、相手を察する

江村:
先ほどの宝珠に世界が映りこむ話は、個人的には非常に刺激的でした。以前意志共鳴型社会について議論していたときに、「理解」と「納得」は違うという話になりました。ただ理解するだけではなく納得して自分も行動を起こせるようなものって、お互いがお互いのなかに映りこみあっている状況じゃないと生まれないような気がします。

松島:
いまのSNSってもはや単なる共感の増幅器になってしまっていますよね。そこからひとつめの問いでも出てきていた「腹落ち」のように身体性も伴うような共鳴を起こさないといけないのだなと思いますね。

塩沼:
重要なのは、置き換えの想像力ですよ。たとえば私は、小さいころ親にこっぴどく叱られて、「人の痛みをわかりなさい」と何度も言い聞かされてきました。何か発言すると「あの人はこういうことを抱えているのだから、そういうこと言うのはダメでしょう」と叱られたものです。

ドミニク:
それって、訓練ですよね。一を聞いて十を知ることをずっと親が教えてくれていたのだと思います。でも感覚的なものですね。一を聞いて十を知るなんて。

塩沼:
それで何度もこっぴどく叱られつづけるなかで、その裏には「相手を察すること」があるのだとあるとき気づいたわけです。

ドミニク:
そうですね。だから重要なのは「空気を読むこと」じゃなくて「相手を察すること」なんですよね。

塩沼:
察すること……これは、真理だと思います。

ドミニク:
相手を察するって実はすごく高度な技術だとぼくは思っています。つまり、相手を察しようとしているときは相手になっているわけですから。相手はいまこういうふうに苦しんでいるのかなとか、こう喜んでいるのかなと考える。それは自分を飛び出して相手を投射しているわけで、まさにそのとき個から脱却できていてると思います。

個を脱することで、隣人とつながる

ドミニク:
こういうことをぼくたちは日常生活のなかですごくミクロなレベルでやっていたりもします。そういうふうなことを考えると、ぼくは「意志」というのも結構強い言葉だなと思っていて。人間を強い方向に駆り立ててしまう言葉じゃないですか。ぼくなんかは弱い人間が弱いままネットでも現実でも存在していけることが浸透しないといけないと思います。別に強い意志をもっている人じゃなくても包摂していかなければいけない。

松島:
夢とか挑戦というとどうしても強い意志が発動しますからね。

江村:
じつは昨年度のNEC未来創造会議でもその点については指摘されていて。強者の議論になってしまっているのではないかと。だから安心して弱い部分を見せられるとか、弱くてもチャレンジできる状況がいまは失われているのかなと思います。

松島:
すべての人が強者になりたいと思っているわけではありませんからね。社会のなかにいるさまざまなプレイヤーをコミュニティは包摂していく必要がある。でも、じつはそれって仏教の世界では2500年前から取り組まれていたことでもあるのかなと。テクノロジーがコンバージェンスしすぎている状態からいかにそれを押し戻せるのか、ある種のOSみたいなものをどうやって社会のなかに注入しなおせるか考えなければいけないでしょうね。

塩沼:
原点を見つめると、人生って有限ですよね。なら明るく楽しくなきゃダメじゃないですか。あるときどうしたらみんな笑顔で暮らせるのかなと思って暗い人を研究したことがありますが、寂しくて自己承認欲求の強い人が多かった。だからみんな一人ひとりが宗教の開祖のように自分の人生をアートしていけたらいいなと思っています。

松島:
いまおっしゃっていたような自己承認欲求って、じつはテクノロジーによってドライブさせられている気もします。SNSを通じて承認欲求をどんどん駆り立てられるのだけれど、それは満たされないから、病んでしまう。みなさんのお話を伺っていると、個の分断を脱却するためには単にもう一度「社会」と接続するだけではダメなのだなと気づかされます。縁起という話もありましたが、自分の個をある意味で少し弱めることによって、隣や周りの存在とつながって/つなげていくことが必要なのだと。それを少し大きな言葉で表すと、今回のテーマでもあった「コミュニティ」になるのかもしれません。