Forum Report

「2050年、ヒトは何のために、どんな環境で、どのように働くのか」
第1回会議 レビュー④

前回は、第1回会議の前半のテーマ「コミュニティの未来」をレポートしました。
今回は、会議後半のテーマ「働き方・暮らし方の未来」の討論の様子をレポートします。藤沢氏による進行の下、7名の有識者の皆さんが「働き方」にフォーカスを当てて議論を展開します。2050年。働き方の定義はどう変わっているのでしょうか。

NEC未来創造会議メンバーの写真

第1回有識者会議参加メンバー

ソフィアバンク代表

藤沢 久美 氏

ファシリテーター

慈眼寺住職 大阿闍梨

塩沼 亮潤 氏

アーティスト

スプツニ子! 氏

SF作家

長谷 敏司 氏

将棋棋士

羽生 善治 氏

ロフトワーク 代表取締役

林 千晶 氏

岡山大学文学部准教授

松村 圭一郎 氏

NEC CTO

江村 克己

近い将来あなたは働いているのか

2018年の現在、私たちが想像するのは、AIやロボットが労働の一部、あるいは多くの部分を担う未来ではないでしょうか。仮にそうなったとき、働き方はどう変化するのか? そもそも2050年に私たちは働いているのか? まずは、そんな問いが投げかけられました。

藤沢:
2つ目のテーマ「働き方、暮らし方」ですが、どちらかというと少し働き方に振った話をしていきます。一般論の働き方ですと最初から飛んでしまうので、まず「ご自身が2050年に生きていたとしたら、働いていますか」を聞いてみたいと思います。2050年に生きているとしたら、働いていると思う方は挙手してください。──あれ? 羽生さんは働いていらっしゃらない?

羽生:
ええ。もう80歳だから、いいかなと思います。働く定義にもよりますけど。

藤沢:
羽生さんにとって働く定義は何ですか?

羽生:
面接とか受けたことがないですし、就職試験とかやったことがないので。だから、無職ではないのですけど、あまり働くという概念がないんです。逆に言うと、先ほどのAIの話で、いろいろな労働とか仕事とかが効率化されていったときに、では2050年に100億人分の仕事が存在しているか? ということはあるのかなと思います。効率化していけば、そういう仕事の数が少なくなっていく方向にいくと思うので。

長谷:
2050年ぐらいなら、まだ仕事はあります。汎用AIが社会に入り込むかどうかと、電力やインフラがどれくらい安くなるかにもよるので。人間は電気がなくても、つまりインフラが万全に整っていなくても働けますよね。ただ、自動化が行き着いたあとで、人間に働く場所があるかというと、そこは微妙なように思います。
今現在、「働く」ということは、人間が働くことによって社会が回るというイメージがあります。それが、社会を回すこと、社会の運営自体に、人間が全く必要ないという共通認識ができてしまったときに、どのくらいの価値を我々が持てるかというと、それは相当厳しいような気がする。
むしろ、そういう世界になったら、──僕は羽生さんのような競技のプロの方には一種の知的アスリートみたいなイメージを持っていますが──自動化が行き着いてしまうと、むしろ羽生さんのようなアスリートの方のほうが、変わらない仕事の需要が存在するような気がします。

長谷 敏司氏の写真

「社会の運営自体に、人間が全く必要ないという共通認識ができてしまったとき、どのくらいの価値を我々が持てるかというと、それは相当厳しい」

長谷 敏司氏

藤沢:
人間がいて社会が回っているけれど、システムによって、技術によって人間いらずになる。

長谷:
ときどき言われることですが、働くことでお金をもらうのではなく、ベーシックインカム的にお金をもらって社会に参画する、お金をもらって働くぐらいの逆転すらあり得る。

藤沢:
食べるために働くことは今、私たちは結構やっているのですが、働かなくても社会は回る、お金ももらえて食べられる。最低限そうなったときに「働く」ってどうなるのでしょうか?

松村:
その問いは、実はAIが来ようが来まいが、例えば、「定年後どうして日常を過ごしますか?」という問いとほとんど同じなんですね。結局私たちは、例えば、年金をもらえて生活は確保できても、何かをしないと生きていけない。だから、働くということを考えることは、どう生きていくかを考えることになって、実はそれはもう常に私たちの目の前にある問いだと思うんです。
私自身は、なるべく大学で教えることを労働と思わないように自分に自己暗示しています。つまり、1時間でいくらもらえると考えた途端、適当にやればよくなってしまうんですよね。座っていればお金が入るみたいな。そういうマインドにしないためには、今やっているのは自分が好きでやっていると、これは労働ではないと自分に言い聞かせて、できるだけ今労働していると思わないようにしています。

松村 圭一郎氏の写真

「AIが発達すると、足を田んぼに入れて、田植えをしてお米が育つことに喜びを感じられるといった身体的なことに、実は戻っていくのではないか」

松村 圭一郎氏

変容する労働──壮大な「無駄」に価値が生まれる

考えてみれば、将棋棋士、SF作家、アーティスト、研究者、宗教家といった立場から、個々の「働き方」は2050年になっても、それほど変わらないかもしれません。そんな未来の先駆けのような職業を持つメンバーが考える、働くことの意味とは?

藤沢:
スプツニ子!さんに伺いたいのですが、「アートもAIがやれます、すごい作品をつくます」という時代がやってきたときに、「人間のアーティストは要らない」と言われたら、アーティストとしてはどうしたらいいだろう?

スプツニ子!:
AIがアートをつくるからといって、私がアートをつくるのを止めるわけないじゃないですか。AIのアートのほうが売れても、そんなの関係ない。アーティストは、アートをつくりたいからつくっている。だから、その問いがあったときに、この「AIが仕事を奪うか奪わないか問題」の本質が見えてきたなと思って。人はやりたいからやっていることが、アート以外にもたくさんありますよね。たまたまそれで生活費を稼ぐ人もいるということ。
あと、無駄と言われているものの価値がどんどん上がるのではないかと思うんです。合理性や経済性を考えて労働するイメージがあって、余暇の時間に少し遊んでみたり、花火してみたり、川遊びをしたりみたいな、無駄と言われているようなところに実は人間の豊かさがある気がしています。「無駄ってかなりよくない?」みたいな。「無駄のバリューアップ」と先ほど書いたのもそれで。アートなんて無駄の集大成で、人間は、アートがなくても生きていけるのにアートをつくり始めて、でもその中にいろいろな発見があったりする。無駄は大事だなと思います。

スプツニ子!氏の写真

「無駄と言われているものの価値がどんどん上がる。無駄と言われているようなところに実は人間の豊かさがある気がしています」

スプツニ子!氏

林:
本当にそうだなと思います。私が大好きなハンナ・アーレントが書いた『人間の条件』という本の中で、人間の活動を「労働」と「仕事」と「活動」と言っているんです。英語だと「labor」「work」「action」。人間が得意ではなく苦しいと感じる作業は、どんどんロボットやAIが進んでやって、そのことを誰も「なぜ俺の仕事を奪ったんだ」とは思わない。今「やらされている」と感じる労働はAIにどんどんやってもらえるようになってくるし、有用性のためにやる仕事──今は労働者はほとんどいなくて、仕事さえもきっと減ってきていますが──「活動」は働くということではなく生きることであり、「活動」の条件は、自分がこれは大切だと思うことに人を巻き込むことで、自分ひとりではできないと書いてあります。
そういう意味では、ここにいる人たちはみんな活動者であって、労働も誰もしてなさそうですよね(笑)。だって将棋も何かのためでもないというか、有用性のためでもない。

羽生:
おっしゃるとおりです。

スプツニ子!:
そういう意味で、視点が偏っているかもしれないです。

林:
そういう意味では偏り過ぎているのだけど。私が今自分がやっていることは、「森」なんですよ。林業。「林業」と言わないと、人がビジネスだと思ってくれないから「林業」と言うんだけど、別に流通も何もしなくて、森って気持ちいいんだよと、もっとみんなを連れてきたくて。
そうすると生物として森がないと人間は生きていけないよねと、逆に発見につながる。生物の多様性のために森がいいと思っているのではなくて、森はすごくいいなというところから始まるから、労働や仕事がもっと効率化されていくと、今まで余裕がなくてやれなかった田植えの本当の意味とか、そういうところの価値を人それぞれが再発見していくようになるのは、すごく楽しみだなと思っているんです。

林 千晶氏の写真

「いろいろな価値観の人がいろいろなまま生きていけるようになったときに、それを『格差』と呼ぶのか、『多様な暮らし』と呼ぶのか」

林 千晶氏

松村:
私もそれはすごく賛成で、AIが発達すると肉体労働が減って、知的なクリエイティブな仕事だけを人間がやるというイメージがありますが、私は逆にそちらはどんどんAIに置き換わっていって、人間の特性は、この限りある身体があるということに戻っていくように思います。
その身体で森に行くと気持ちいいとか。確かに田植えをするには機械を使ったほうが効率的で早いけど、単純作業でも、足を田んぼに入れて、こ手で苗を植えて、お米が育つことに喜びを感じられる身体みたいなことに、実は戻っていくのではないかなと思っています。

林:
やはり、データもやることも「やらされる」と思った瞬間に労働になってしまうのだけど、意思でやっているといろいろな発見があって、変えようとすることが生まれてくる。データも人工知能も「最適です」と1個のルートを決めるのではなくて、海が好きな人、カフェが好きな人、いろいろなルートで、いろいろなチョイスがあることを可視化できると視野が広がる。

藤沢:
要するに、ここにいらっしゃる方はみんな好きなこと──ある意味「壮大な無駄なこと」をやっている。だけど、その壮大な無駄なことをやっているような人たちが、実は未来にとって必要だということで、今集まられていると思うんです。
唯一面接を受けていらっしゃる(江村さんの)お立場からすると、皆さんがおっしゃるように、仕事はみんなやってもらえるようになって、好きなことをやれるんだという社会は、どうですか、現実味はありますか?

江村:
そうなったらいいと思いますね。ダイバーシティ&インクルージョンというのはこういうことか、みたいな、いつもと逆のパターンみたいですが。
それはやはり意思を持ってそういうふうに社会を変えていかなければいけないじゃないですか。ここにいらっしゃるような人は、日本全体で見れば、現在ごくわずかしかいなくて、多くの人がそういうふうになるであろうという2050年をイメージしたら、今から何が変わっていかなければいけないのだろうと。
NECももう百何年になっていて、でも今の会社の仕組みは1970年ぐらいに最適化されているわけですよね。みんな8時半に来て、お昼休みはみんな決まっていてみたいな。それは、ものをたくさんつくるには最適なデザインになっているわけですが、ひとりひとりが今みたいに仕事が変わってきて、人がやるべきことをやるという世代になるとしたら、そこも変わらなければいけない。というのを、あと30年ぐらいしかない間にどうやって変えていくのみたいなのは、結構チャレンジな気がします。

江村 克己の写真

「ひとりひとりが今みたいに仕事が変わってきて、人がやるべきことをやるという世代になるとしたら、意思を持ってそういうふうに社会を変えていかなければいけない」

江村 克己

長谷:
それ(会社のような収れんされたパワーが社会を動かすこと)は変わらないと思います。結局、僕ら作家みたいな側では、全く堅牢さのない世界に生きている。例えば、これだけ資本を投資したら、どれぐらいの仕事が生まれて、どのくらいのバックがあるかということが全くない世界なのです。
社会を回すには、きちんとこのぐらいの資本を投資したら、このぐらい戻ってきて、どのくらいの仕事ができて、どれぐらいの人が養えるのかということが計算できないと、大きい投資はできないし、そこで生み出す価値に対して期待ができないところに大きいリソースは割り振れない。ということは、その大きい投資ができないものを中心に、大きい社会を回すことはできません。
ということを考えると、全く投資効果が分からないところに重点がシフトするのかというと、さすがにそれはないのではないかと。

江村:
マクロにはそうだと思うのですが、先ほどおっしゃった話で言うと、徐々にAIやロボットに投資して、ある部分をリターンして、ベーシックインカムみたいなところはそちら側でカバーする社会をデザインしていけば、こちら側はリスクも多いけど、そこをどうやって増やしていくかということを言っているわけです。

長谷:
そこがAI社会のある意味福音であり、恐ろしいところだと思っていて、そのシステムをつくると、やはりインフラが権力を持つんです。

労働は活動へ──多様な生き方という選択肢

ヒトが、人間本来の活動を行うようになったとき、働くことの意味を生きることの中に再発見していくというストーリーがある一方で、そうした生き方を実現するためには、どんな社会をデザインしたらいいのか、課題も見えてきました。

羽生:
南太平洋にナウルという国があります。昔はリンがいっぱい採れて、税金もただで、社会保障もカバーされていたんです。でも、リンが採れなくなって、外国の援助に頼るようになったんです。保障されていた時代は働かなくてもよかったんですが、働かざるを得ない環境になっても勤労意欲は全く上がらない。だから、一回勤勉さから解放されてしまうと、なかなか元の勤勉さに戻るのが難しいところはあるとは思います。
ただ、もうひとつ私が思うのは、例えば、江戸時代は隠居して好きなことをやっていた人がかなりいて、それが多様な文化を生んでいたところがある。労働や仕事は残って、それとはまた別に自分の好きなことをやるとか、やりたいことがたくさんあるとか、その時間がたくさんある社会をつくるというのが、全体的には幸せな社会なのではないかなと。

羽生 善治氏の写真

「やりたいことがたくさんあるとか、その時間がたくさんある社会をつくるというのが、全体的には幸せな社会なのではないか」

羽生 善治氏

林:
大きな資本がないと、より権力が集中していくというのは一面で、コンバージェンスの支えるところは、よりグローバルに統合が進んでいくとは思うのですが、その結果、小さい投資でもいろいろな暮らし方ができるようになっているのも確かです。
フィンランドのフィスカルスという村に行ったことがあるのですが、数百人が暮らすアーティスト村なんです。2人の20代の男の子が、最新の水力発電のモーターを買って村全体の電力を発電していて、その友達が木を切ってきて家具をつくり、世界中に輸出するような。そこに毎年何十万人が観光に訪れたり、文化の発信拠点になったりもする。要は今まで費用対効果でできないと言っていたところに、やはりここにいるような人たちが、もっとお金のためではない視点で「自分たちで電気を作ったほうがよくない? 川は流れているんだし」と言って実践する、そういう道具をどんどん増やしていけばいいのではないかなと私は思っています。
だから、大きなところにどんどん力が集まるけど、それによって小さいグループもより自立して暮らしていけるという、吸い取られてしまうのではなくて、そちらも力を持つけど、そのおかげで「何とまた私たちも多様に生きられることか」となる気がする。

藤沢:
インフラ的な観点と、個人個人の働くという観点と、2つのお話をうまく交差して皆さん話してくださっているのですが、お話しを伺っていて感じたのは、結局社会全体もしくは個人においても、「働く」というのはある意味社会を回すということでもある。社会を回す一員として働く時間と、好きなことをやる時間のバランスが実はすごく大事なのではないかということ。社会において、こういう人たちは本当は少数派で、大半の人がサラリーマン的に働いているけど、このバランスがあるから、今新しいことも生まれている。
また、人生においても、ある一定期間社会で働いてあとは隠居という中で、皆さんのように自由にやっていらっしゃる人生があるから人生も回っていると考えると、このバランスがもしかしたら次の時代になると変わってくるのかなという感じがするのですが、依然、社会のために働く的なことはたぶん生まれてくるし、必要なのではないかという観点でも今お話しいただいたと思います。
ここで塩沼さんに伺いたいのですが、仏教の世界でも毎日の決まったことをやらなければいけないルーティンがあって、これはある意味少し仕事にも似ているし、laborにも似ている。働くことと自由なこと、人が生き続ける上でどんなふうに大切だと考えていらっしゃるのかなというのを。

藤沢 久美氏の写真

「お話しを伺っていて感じたのは、社会を回す一員として働く時間と、好きなことをやる時間のバランスが実はすごく大事なのではないかということ」

藤沢 久美氏

塩沼:
今、日本で私たちは暮らして、こういう環境の中で生かされているのですが、発展途上国と先進国の間では生活スタイルも違うと思うんです。原点に返って森を見たりなんなりと言うけど、今でもずっと毎日森で生活している人もいるわけですよね。時代が変わっても、2050年になろうと、あるいは今であろうと、変わらないところというのは、私たちは何かの命をいただいて、この生命体を維持していくこと。それは動物であれ植物であれ、みんな一緒だと思うんです。
先進国で暮らしていると、日本もこのようにコンクリートのジャングルですが、当然畑もないし、自分で農業もできないし、その代わりに働いてお金を得て生活を営む形になりますよね。江戸時代は武士でさえ半農だったんです、農業をしながら。
私たちは生命体を維持するために、何か働いていかないといけない。今現在のこの地球でも、いろいろな働くということの中でも多様があると思うんです。その中でいろいろな精神的なストレスを皆さん抱えたり、どうやって生きていったらいいんだろうという個人的な人に言えない悩みを抱えている人も、実際いるわけです。
そのために私たちはまず、自分自身がどう生きていったらいいのか、この悩みから、自分自身の悩みから根本的に解放されるためには一体どうしたらいいのかと、同じことを同じように繰り返して悟りを得るわけです。ただ、このルーティーンをこなしただけでは悟れなません。やはり日々、今日より明日、明日より明後日という可能性に挑戦していかない人は悟れないです。
10人あるいは100人が「用意ドン!」で一緒に修行しました。100人が100人とも仕上がりが一緒かというと、全然違います。その中で、本当にその境地に達する人は、何千人、何万人に一人という割合なんです。やはり自分で納得して、あの人は会っていて気持ちいいなとか、また会いたいなというお坊さんには人が集まるだろうし、そこでアイデアを皆さんに提供できるし。私たちは好きなように生きさせてもらっていますが、アートの部分も実はありますね。

塩沼 亮潤氏の写真

「人間の礼儀やマナー、核となるルールをしっかりとみんなが認識した上でテクノロジー開発をしなければならない」

塩沼 亮潤氏

藤沢:
そういう意味では、働くということを林さんがハンナ・アーレントの言葉で3つに分けてくださいました。labor、work、action。今の塩沼さんのお話だと、このlaborの中にも、もしかしたら喜びや自己成長の場が生まれてくるかもしれないと示唆していただいた気がして、あらためて「働く」も多様になっていくということなのかしら、いろいろな形で。どうですか。

林:
もうひとつだけ足してもいいですか? 実は、高齢社会のリサーチをNECさんと一緒にやっていて、2期目の昨年、「アクティブフルムーン」というフレームワークをつくりました。
男性は、自分の能力を仕事のところで捉えるんです。だから、「あなたの能力は何ですか?」と聞くと、「エンジニアです」とか、「弁護士です」とか、稼いできたそのところでしか自分は能力がないと思うから、退職したあと何かやりませんかというときに、「エンジニアとしてやりたい」とそのまま思ってしまう。でも、それはなかなか社会とマッチングされないから、だったら家で本を読んでいるほうがいいとか、2時間散歩するとかいう形で、「働かない」選択をする。
女性は、メロンの芽をとってください、何かやってくださいとか、何でもやるんですよ。なんでかというと、私ができることは、別に何をして働いてきたかではなくて、手がある、足がある、子どもを抱っこしていられる、ご飯をつくってあげられる、掃除もできる、何でもできる。
男の人が自分の能力だと思っているのは、三日月なの。ものすごく細い三日月。だけど、人間がやれることはフルムーン/満月で、手がある、声を掛けられる、それでありがとうがもらえる。だから、2050年の働き方は三日月ではなくて、このフルムーン全体の中でその人が持っているものを結び付けていくことができて、結果は他人からのありがとうというように、やはり他人がいないとダメなのかなというのが、高齢者のリサーチをやっていると出てきて、おもしろいなと思います。

藤沢:
なるほど。男性がいらっしゃるから、どうですかね?

林:
でも、ここはアクティブフルムーンの人たちだから、ちょっとあれだけど。

長谷:
そうでもないです(笑)。結局、一芸で仕事をしているので。

林:
そうか。

 第1回会議の様子

長谷:
そうなんです。自分の能力をフルムーンとして考えたときに、どんな能力を持っているかということを精密に測ることができていない。おそらく自分の能力の中で、バリューを出せるものは何かということはある程度理解しても、自分の全体像の中で、逆にメロンの芽を取るのがうまいということを、どうやって引き出したり、その能力を探し出したりすることができたのかということが不思議なぐらい、どうやってそれは?

林:
他者からなんですよ。自分で「自分がこの能力である」というのは三日月なの。他者が見出すのがフルムーンの部分で、横におせっかいおばさんがいて、「羽生さん、あなたは話すのが上手だから、子どもにこれをやってみてあげてくれない」と言って他者が引き出すんです。それに乗るということを女の人はやりやすいから。

長谷:
それは作業をしているとき、自分の作業中の姿を誰かが見てくれているからなんですか?

林:
そうではなくて、誰かが自分のやっていることに重ね合わせて、これもできるんじゃないの、あれもできるんじゃないのと人が引き出してくれて、それを「あ、じゃあいいよ、やってみる」となって広がっていく。だから、自分の能力は自分では分からないということかなと。

藤沢:
もっとこの「働く」ことを議論したいのですが、あっという間に時間になってしまいました。今、お話を伺っていて、前半の「コミュニティ」とつながるお話をいただいたなという気がするんです。働くということを考えたときに、結果は自分で能力を見つけるのではなくて、周りが見つけてくれると考えると、やはり前半のコミュニティ、群れるということは、実は「働く」ということに関しても、とても大切なことなのかもしれないというふうに見えてきたところで、この続きは、次回にというふうになればいいなと思っています。